椎名町駅〜瀧乃家
椎名町の由来を調べても確かなことはとんと分かりません。
武蔵野鉄道の椎名町駅の命名はどこから来たのでしょう〜?
目白駅のように目白不動からだと言う何かしらの手掛かりがあれば楽なんですけど(笑)
椎名町の「町」が町屋からとすれば
生活共同体としての職業のの中にある家々。特に城下町の短冊型の商家(商いの場や仕事の場を兼ねた商人や職人の家)をさす
となります。
江戸時代に椎名さんと言う方が居てその辺りを通称名で椎名町と言っていたことになります。
近衛家の目白の通称名で近衛町と同じように、どこか一帯を呼称していたことになります。
あるサイト「東京長崎村」によれば現山手通り辺りに椎名町という小名(5万石未満の陣屋クラス)が居て 瀧乃家辺りから二又交番辺りの目白通り沿いを椎名町と言っていたそうです。
そもそも江戸時代は村社会のため長崎村や落合村あたりでは庄屋が村の長となってます。
瀧乃家の周辺はいったいどんな土地の歴史があったのやら・・・です

武蔵野鉄道(現西武鉄道)の駅名は池袋>あがり屋敷(昭和4年)>椎名町(大正13年)>東長崎(大正4年)
個人的には武蔵野鉄道の駅名のネーミングにかなり違和感を覚えます。
上がり屋敷とは江戸時代の鷹狩の休憩所で当時からの地名でなくその辺りを通称名です。
武蔵野鉄道は大正4年明治維新から約50年後の開業です。
休憩所跡(屋敷)も壊されていたはずです。だって50年後ですから・・・・
上り屋敷駅は目白駅&池袋に近いため住人の乗り降りするメリットはほとんどありませんし
噂では上がり屋敷付近に武蔵野鉄道の社長宅があったとかで・・
東長崎駅は長崎村の西ですぐお隣は江古田村になり・・・・
本来であれば椎名町の隣ですから西長崎となるはずが東長崎とのネーミング、
もしやこちらの解説のように長崎村と長崎県は縁が深くあり
長崎県から見れば東方の長崎となり東長崎となります。
江古田駅(大正11年)に至っては、武蔵高等学校仮停留所とあり武蔵野鉄道が株主であった高校のための駅でした。
武蔵野鉄道の駅名はほとんど迷惑な話ばかりですよね〜(笑)
そんな調子の経営なため大正14年に箱根土地(コクド/西武鉄道)に株の一部を所得され、昭和7年には経営危機に陥り堤氏が再建を目指し、昭和13年に大口債権者であった東武鉄道が債務免除に応じ経営の道筋を立てたそうです。
昔はライバル関係と言うより日本を良くしようと経営していたんだと思う。
江古田駅は幸運なことに大正12年には駅を東寄りに移し武蔵野鉄道江古田駅となったのこと・・

経緯は不明だが大正13年には大泉(学園)を分譲していた堤氏が大泉学園駅を武蔵野鉄道へ寄贈したことを考えれば江古田駅周辺にも何かしらの考えが作用したに違いないと思います。
翌年は一部であっても株を所得してますし・・
もし堤氏が大泉の地で分譲を開始するのでなく椎名町もしくは東長崎での分譲であれば長崎学園と言う名の駅名が誕生したことでしょう。


不幸は突然やってきます。
戦後すぐのあの大きな事件(帝銀事件)です。
当時を知る人によれば、椎名町の開発は全てストップし土地価格は1/10となり引っ越ししたくとも出来ない状態になったそうです。
椎名町は昭和7年(豊島区成立)の7年後1939年昭和14年の区の住居変更で
長崎南町1〜3丁目 長崎東町1(一部)が椎名町1〜8丁目として成立しました。
椎名町1丁目→目白4丁目 >長崎南町1丁目(目白協和会)
椎名町2丁目→目白5丁目 >長崎南町1丁目(目白協和会)
椎名町3丁目→南長崎1丁目
椎名町4丁目→南長崎2丁目
椎名町5丁目→南長崎3丁目(トキワ荘跡地)
椎名町6丁目→南長崎4丁目
椎名町7丁目→南長崎5丁目
椎名町8丁目→南長崎6丁目
住民にとっては住所変更した翌年に戦争が起こり戦争が終わりホッと一息で事件ですから嫌になります、
せっかくできた椎名町は昭和41(1966)年に再度の住所変更で住民の意思で南長崎1〜6、目白4〜5へとなったのです。
豊島区の町名

目白ブランドとは真逆なイメージに立たされた椎名町。
数人の漫画家が誕生して『トキワ荘』を語れば椎名町の名が出てくる。
目白がゴジラなら椎名町はラドンで下落合はモスラって感じ。
池袋と馬場と新宿の3つの首を持つキングギドラ。


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